The story of
MUSHROOM STOOL
マッシュルームスツール物語
マッシュルームスツールは2度生まれた。
それは、1961年と2003年である。
そして思いかけず、私たちをたのしませる存在になった。
そのマッシュルームスツールにまつわる、
いくつかのエピソードをここに書きとめよう。
-山中康廣
「どうしたんだろう、みんな来ないだけれど・・・」倉石阿美子と私2人でみんなを待っていた。1960年、世界デザイン会議が日本で開催され、それに呼応してデザイン系や建築学科の学生もデザイン学生会議に集まり活動を始めた。この日はなぜか他の仲間が来なかった。このときから大学も学科も異なる2人が知り合うことになる。曾原 厚之助と私は、早大のクラスメートである。
入学当時、アメリカ留学から帰国した穂積先生の口添えで1年先輩のHグループに紹介され、それがきっかけで2人の仲が深まり後にAMIDAグループに発展する。
1961年天童家具コンペティッション、受賞パーティにて
たまたま、天童木工の家具コンペの情報が入ったので、大学の長い春休みを利用して、3人は日本で最初の家具コンペに挑戦することにした。未熟な学生ではあるが、一番やりやすい課題のスツールを選び、自分たちなりに消化しながら、エスキースをはじめた。成型合板の使用が前提だったので、スケッチはせず、製図用のケント紙を切ったり曲げたりのペーパーモデルでエスキースをおこなった。そのため、今でもマッシュルームを絵に描いて人にみせようとしてもできないのだ。
この形は、直接ペーパーモデルから生まれた形で、決して絵のスケッチからは生まれない。多くのモデルの中からマッシュルームが選ばれ、これで応募した。コンセプトは、「無駄のない単一部材の構成」「組み立て式」「軽量化」「成型合板の特徴を生かしたカーブと弾力性」である。
入選の知らせの後しばらくして、最初の試作品が届いた。これを見て驚いた。ペーパーモデルの写真と似ている。
しかし、デザインは未熟で板も厚く、弾力性に欠けていた。デザインの修正は油土を張り付けておこなった。脚からねじれて立ち上がる曲線をゆるい立ち加減にし、座面の下の空間が下方に広がり入り込むようにし、平らな座面につながる曲率をつよめている。
また、弾力性をつけるために厚さを12mmから7mmに変更した。こうした修正を乾部長をはじめとした天童木工の技術陣が見事にまとめ上げてマッシュルームスツールは誕生した。
6月の受賞パーティでは、季節の山形名産サクランボが大皿に山のように置かれ、そのおいしさが鮮やかによみがえる。また、AMIDAグループ福村の6月23日メモの中に「山中、曾原、春休みの研究、スツールで入賞し、その賞金の一部で飲み会を同潤会江戸川アパート(福原自宅)でした」の記述があり、当時の学生生活を懐かしく思い出した。
こうした楽しい思い出とともに生まれたマッシュルームスツールは、諸々の事情で製品化されず、お蔵入りとなった。
その後、1965年私達は結婚し、まもなく曾原さんも糸子さんと結婚しそれぞれの道に進んだ。試作品はリビングの隅にひっそりと存在し皆から忘れられていった・・・。
「山中さん、コンペのスツールを復刻商品化しませんか?」
2002年7月、突然天童木工の菅澤部長から電話があった。「いいですね。やりましょう。それにしても、どうしてその様になったのですか?」と私が問うと「実は、バタフライスツールが昨年1年間で過去10年分売れました。ミッドセンチュリーデザイン再評価の影響と思われます。柳の下のドジョウではないのですが、ヤマナカグループのスツールを倉庫でみつけました。ぜひ復刻しましょう。今の技術のコンピュータとロボットで正確な加工ができます。」との管澤部長の説明である。
これで「マッシュルームスツール」再生がスタートした。1961年入選から、じつに41年ぶりの再生話に、驚いたり喜んだり、長生きはいいものだと思った。
商品化にあたっての課題は、
1)椅子としての安定性を増す。
2)上面の3角穴の縮小
3)上面の取り付けビスをなくせないか
4)仕上げ面材の選択
天童木工は以上の修正を2002年IPEC21の展示に間に合わせ展示会場の反響をみたいとのことだった。その要望に応えて、限られた時間であったが総力をあげて修正した。
展示の反響は予想を超えたものだった。主に若者たちの注目を集め、アンケートも多数寄せられた。各メディアの取材も重なり、「幻の名作復刻」などと表現されたりした。なかでもフジTVの{EZ!TV・魅惑のデザインミッドセンチュリー」の影響力は大きく、マッシュルームスツールの名は家具に関心のある人に一挙にひろまり、その月の売り上げ個数は200個を越えた。
樹下美術館 絵画ホール(樹下美術館http://www.juca.jp)
阿美子の父親は、画家であった。私達が学生時代にいくつかのコンペに挑むとき、時々父のアトリエを借りて徹夜しながら制作していたのを、ほほえましいという顔で眺めていた。
その父の新潟市美術館での展覧会をきっかけに、上越市(父の郷里)医師の杉田 玄さんが、父の絵画コレクションし始め、その後2007年、斉藤三郎さんの陶器と父、倉石 隆の絵画を展示する「樹下美術館」を建設された。
美術館を建てるにあたって、倉石 隆の絵画が展示される空間に、椅子を置くことを思いつかれた。世界中の数ある椅子の中から、私達がデザインしたとは知らずに、マッシュルームスツールを2個求められ、あとからデザイナーの一人が倉石 隆の娘と知って杉田さんはびっくりされ、私達も驚いた。父がマッシュルームスツールを引き寄せた、と思う。
個人の収集美術館でこじんまりとした建築だが、何時間でも過ごしたいような、とても魅力的な美術館だ。
2009年5月、天童の斉藤さんから一通のメールが届いた。「マッシュルームをパーマネントコレクションにしたいとの連絡を受取りまして、その資料を作成する必要があるため御連絡申し上げます。」
さて、何のことやら。聞くとジェトロとパリ装飾美術館は共催した「日本の感性」展で、マッシュルームが展示され、中でもメインの場所に展示され、多くの反響があったとか。
ル・モンド紙(2008.12.18付)掲載記事
日本デザインの偉業「日仏友好150周年を記念し、パ
り装飾美術本デザイんの多彩ぶりを紹介。同展示会は感
受性(デザインの感受性と哲学的側面を指し、日本文化
にとっては重要な要素)精神を基軸とて展開、厳選され
た120のオブジェをみれば、芸術家たちの感受性のす
べて、またかれらの技術的偉業や、ノウハウがよりよく
理解できる。光によって色を変える絹織物、まさに折り
紙へのオマージュともいえる加湿器、ベニアとマッシュ
ルームとよばれる腰掛、レザーで切断したステンレスに
赤色漆加工した皿、巨匠たちの手による6冊の印刷本を
通して書道も紹介。12の日本語のキーワード(おる、
しつらえる、など)が来場者を誘導する。
パリ装飾美術館、会場の展示風景
この展示をきっかけにパリ装飾美術館はパーマネントコレクションに選定するための資料をとりよせることになったのだ。
選定委員会から、
①どのような道をたどってデザインしてきたか?
②その結果どのようなデザイン哲学を持って
③マッシュルームにその哲学がどのように反映しているか?との問いがあった。
この問いに対し私達は
「椅子は、人が座ると機能的な家具ですが、人が座らないときは、オブジェとして部屋に存在します。私達はこのコンペティションにオブジェとしてとらえることをコンセプトとし、アイデアをだすことにしました。普段扱いなれている紙にハサミを入れたり、折り曲げたりしてデザインしました。
この形はこのような方法からのみ生まれたもので、平面で描くことからはうまれない形です。
私達は、この作品を作るときに奇抜な形を追求したわけでなく、素直に成型合板の性質や加工方法を考えて、造形して行きました。
その結果がこのような形を生んだのです。42年を経て当時の技術では、製品化できず、試作品で終わったものが今日のコンピュータ技術の発達により、ようやく製品化できたことはデザイナーにとってうれしいことです。わたしたちは、このスツールをマッシュルームと名付けました。生活のなかで培われた感性は時代を超えて受け継がれると思います。伝統とは目に見える形にあるのではなく、その形の背景に有る考え方や感性の中にあるものと考えます。」
私と阿美子はこの年の秋、山形を旅行した際、隣接する天童市に寄り、天童木工本社で社長さん、役職の方々と懇談した。
私、「パーマネントコレクションに選定されたあかつきには、記念品としてぜひ「和」の素材、たとえばけやき 黒柿等で、是非つくっていただきたいですね。」
社長さん、「たまたま来年は、当社が70周年をむかえるので、記念事業としてやりましょう。」
私、「ところで、そうなると天童木工のパーマネントコレクション選定スツール(バタフライスツール、ムライスツール、マッシュルームスツール)3役揃い踏みですね。と意気投合した。
バタフライスツール:横綱、ムライスツール:大関、マッシュルームスツール:関脇、それぞれ個性的である。
10月天童木工を通して、パリ装飾美術館の館長さんのサイン入りの選定書が届いた。
わたしたち3人は、これを記念して、ぜひパリ装飾美術館に表敬訪問!しようと計画を立て始めた。曾原夫妻と私たち夫婦は時間をみつけては、たのしい計画を話し合った。結局、互いの仕事の関係から、2010年の秋にしよう、ということになった。
ところが、先の9月本社訪問の時意気投合した70周年記念事業については残念ながら諸事情により実現しなかった。
そこで私達は、ヤマナカグループとしての記念事業を提案し、協力いただくことになり、ここに「マッシュルーム・けやき」が実現することになった。
和の素材を取り入れた「マッシュルーム・けやき」の制作にむけて、天童に出向き、ケヤキの素材、塗装しようなどについて協議を重ねた結果、今回の「マッシュルーム・けやき」が誕生した。
マッシュルームスツール・けやき
9月、曾原夫妻は、フランス国内を旅行、わたしたちは、北欧、南欧の建築見学とそれぞれ計画を立て、目的のパリで合流してパリ装飾美術館を訪問することにした。
訪問にあたっては、フランス語ができない私達のために、阿美子の友人の友人(モニックさんという日本文化を研究したフランスの女性)の助けを借りて、有意義な懇談ができた。
私達、「マッシュルームスツールは、どう評価され、選定されたのですか?」
館長代理のドミニク(家具担当)さん、「マッシュルームスツールは2つの点で評価されました。1つは1950年、60年代のデザインが大編優れていて、美しい。2つめは、制作技術がすぐれていて良くできている。」
この答えに3人共納得し、5人の記念撮影で訪問の目的を無事果たした。
館長代理ドミニクさんを囲んで
パリ装飾美術館は、ユニークな美術館だ。絵画、彫刻以外のあらゆる生活用品を展示保存している。またそれを次世代につなげるための事業もおこなっている。さすが文化国家を自負している国である。
通訳のモニックさんには、日本の酒、つまみが大好きで納豆、味噌も好きと聞いて、おみやげに熊本の「やまうに」を持って行った。
今回の欧州旅行では、数々のエピソードがあるが、中でもマッシュルームにまっわる思い出深い話がある。
旅の最後、私達は、ヴェネチアからヴェローナに向かう列車の中で、たまたま、建築を学ぶイタリアの学生グループと隣合わせた。英語が不自由な日本人とイタリアの若者たちとの会話は、持参していたデジカメの建築写真が媒体していたので、なんとか会話ができた。
わたしたちは、この旅の目的が「マッシュルームスツールが、パリ装飾美術館のパーマネントコレクションに選定された記念旅行だ」と話した。
若者たち、「マッシュルームスツールってどんなデザイン?」私は、それを描いてみせようとしたが、やはりあの複雑な形は描けない。そこで私達はあの不等辺四角形の3枚の部材を手帳の紙を手でちぎり、その3枚を曲げ、組み立てる格好をした。彼らは「そうか、わかった。だからマッシュルームになるんだ!」と言ってくれた。